天笠書房

魔導書工房の見習い日誌

12話 魔法使いの住む街

 魔法使いにならない、という宣言にゆきは淡々と「そうですか」と答える。怒ったふうでもなければ、残念がることもない。幸か不幸か、それ以上彼女は千尋にその話をしようとしなかった。

 やがて、ゆきは「できました」と顔を上げる。紙一面に描かれた――といってもステンシルシートを使った模様が大部分を占めてはいる――細かで美しい模様が煌めく。その上にぽうっと現れたのは、葉を落としきった木々だった。

 細い枝にやわらかな雪が積もっている。朝日を受けて煌めくのは雪だが、枝に積もって白く包んでいるので真白な木が輝いているように見えた。そこに、晴天から雪がはらはらと散っている。薄青に散る雪片が美しい。だが荘厳や神秘というより、強烈な郷愁におそわれて、千尋は息を呑んだ。この景色を知っているような気がする。友人のようにそこにいて、しかし、いつの間にか離れていた。そんな風景だった。

「天気雨みたいな雪……」

「ええ、晴天に降る雪は風花と呼びます。……この景色を再現するのに少し手を入れたので時間が掛かりましたが、いかがでしょう」

「……綺麗です。この木の下を、歩いてみたい」

「ご案内できますよ。これは三番街という街に実際にある光景です」

「三番街……」

「この榊ヶ原で……いえ、この国で最も魔法に溢れた街です。私もそこに住んでいます」

 ゆきが紙になにか書き足す。すると、浮かぶ幻に空を飛ぶ舟がすうっと入ってきた。

「三番街は山肌の、坂道にある街なので移動には空飛ぶ和船を使います。こうして舟を漕いで街を案内するお仕事の方もいて、観光に訪れる方も少なくありません」

 その街に行きたい。咄嗟に浮かんだ言葉がそら恐ろしくて、千尋は何も言わぬうちに自分の口を手で覆った。故郷を滅茶苦茶にした自分が呑気に美しい街に行くことを望んでいるのが、あまりにも気味悪くて吐き気がする。

「……千尋君? 気分が優れませんか」

 ナースコールに手を伸ばしかけたゆきを止めて、千尋は「大丈夫です」と繰り返した。取り繕った笑顔で話を続ける。

「……観光地に住むのって、どんな感じなんですか?」

「施設を出てからずっと三番街で暮らしているので、比較対象がないのですが……。そうですね、賑やかです。音や人の数というよりも、空気のざわめきや人の気配がそこかしこに充ちている……かと思うと、まるきり誰も知らないようなひっそりとした場所に足を踏み入れることもあって、いつまでも知らない土地がなくならない。そういう感覚です」

「じゃあ、この景色は?」

 千尋が幻影の風花を指せば、ゆきは穏やかに答えてくれる。

「どちらでもありません。静かだけど、見知っている場所。それでもいつだってこんな風に雪が降っているわけではないので、その瞬間に出会えると嬉しい。そんな光景です」

「……ああ、それはわかります。俺も……凍った湖が好きで」

「凍った湖ですか? それはどちらの……」

「俺が住んでいた町です。冬になると湖が凍るのを、早朝に……父と母に連れられて、見に行ったことがあって。大きな音が町中に響いた日、湖に張った厚い氷が盛り上がって氷の道を作ってる。それを……見せたかったんでしょうね。地元では神様が歩いた跡だなんて言われていたけれど、俺は竜の背中みたいだなって思ったのを覚えてます。湖なんて毎日見てたはずなのに、あの時だけは知らない土地に見えたから」

 いつの間にか俯いていた千尋の顔のそばへ、そっと白い手が伸びる。できるだけ肌に触れないよう気を遣って、ゆきは千尋の横髪をそっと耳に掛けた。

「……また見たいですか」

「……見たい、見たくないの話じゃないですね」

 もう、見られないだろう。見られたとして、それは最早千尋の「故郷」ではない。拒絶らしい態度にならないよう、細心の注意と共に千尋はゆきの手をそっと退かした。見なくても良い。綺麗だと思ったあの日の記憶ごと、近い将来なくなってしまうのだから。

「……そうですか」

 また、日が落ちかけている。暗くなり始めた部屋で千尋は笑顔だった。穏やかに笑えたのは、もしかしたら人生で今が初めてかもしれないと思うほど久しぶりだ。

 ゆきの表情がにわかに曇り、しかし、そのあと姿勢をぴんと伸ばした彼女からその曇りは消えている。

「……千尋君。もし、あなたがこの幻の景色を本当の意味で見てみたいと、そうでなくとも、何処へでも、行きたいところが出来たら私を頼ってくださいね。きっと、あなたをあなたの望むところへ連れていきます」

「俺……いま歩けないんですよ」

 苦笑で返せば、ゆきは「そうですね」と笑う。

「それでも私たちは魔法使い。たとえ両脚が動かなくなっても、好きな場所へ歩いてゆけると知っていてください」

「……俺は、魔法使いじゃないですから」

「なれますよ、あなたは」

 魔法使いになれる。強い意思を持った声でゆきは言った。だから、どこへでも行けると伝えたいのだろう。

 でも千尋にはもう、行きたいところなんてない。

「治らない怪我じゃないみたいなので、魔法使いにはならなくていいです」

 眉を下げて笑いながらそう言えば、ゆきはもう引き下がったりしなかった。しかし、眼差しに、声に、あの強い意思が未だ残っている。

「そうですね……。かえって縁起の悪い例え話をしてしまいました、申し訳ありません」

「いえ。あ、これ……この魔法、貰っていいですか?」

「ええ、どうぞ。即席のもので恐縮ですが」

 チラシの裏のようにつるつるとして、真っ白な紙にマジックペンで書いたような、しかし細かで美しい黒い線による模様がある。その上に冬の朝の風花が幻影として浮かび上がっていた。その魔法を千尋は大切に手に取って、ゆきに教えられながら小さく畳む。開くたび、またこの景色を見られるという。

 千尋が紙を開いたり畳んだりしている間、ゆきは使っていたペンやサイフォンを鞄に仕舞いはじめる。杖のようなペンでコツンと叩くと、汚れていたペン先やフラスコの中が瞬く間に綺麗になる。ごく短い時間で終わった片付けのあと、ゆきは椅子から立ち上がった。

「今日はありがとうございました。……また来ても、構いませんか?」

「え……それは、いいですけど、なんで俺なんか……」

「……どうしてでしょう。また会いたい、というのでは不足でしょうか」

「不足っていうか……やっぱり、違和感ありますよ」

「では、次お会いするまでに考えておきますね。足……お大事に」

 病室を去る彼女は決して早足ではなかったのだが、どうしてか引き留める余地などなく千尋はまた一人になる。

 病床に潜りながら、千尋は目を瞑る。たとえば平日の午後、千尋が風邪を引いたとして、今度から住む施設の部屋にはあたたかな陽光が射し込むだろう。秋口の夕暮れ、学校から帰る道すがらパン屋に寄り道をしてみる。百円をカフェオレに使うか、オレンジジュースに使うかで迷っているかもしれない。

 そういう未来は悪くないと思えていたはずなのに、なぜか空を飛ぶ和船に乗る自分がいるかもしれない未来を考え始めていた。雪の積もった朝、晴天に舞う雪を見上げながら坂道をのぼる。きんと冷えた空気の先で、吐いた真白な息が風に流されていく。この国で最も魔法に溢れた街。それは千尋の未来にはないはずの分岐先で、せめて訪れるとしても観光客としてでしかない。それなのに、千尋の頭は勝手にあの街で目が覚めて、あの街に帰る自分を想像していた。

 より楽しく、苦痛も後ろめたさもない未来の妄想をやめられないでいる。自分の負った大きな罪を隣に並べてみると、妄想に浸る自分はなんとも悍ましい。一度だけ耳の奥で大きく響いた鼓動の音と冷えていく手足の感覚が警告のようだった。身体の中心からずっと止まず鳴る警告から逃げるように、千尋は目を閉じる。


2023.7.22更新分はここまでです。ありがとうございました。